飯田線旧線(中井侍〜平岡)3
  



愛知県の豊橋駅と長野県の辰野駅間約200kmを結ぶ長大なローカル線飯田線。その南側は天竜川沿いの断崖に沿って進む険しく風光明媚な区間を通過することになるが、そこのはダム建設による線路付け替え等で多くの旧線区間がある。JTBキャンブックス「鉄道廃線跡を歩くT]」にはその中でも中井侍〜伊那小沢 平岡〜為栗間については記述があるが、昭和57年に切り替えられたその中間の鶯巣〜平岡間については他と比べてあまり年月を経ていない為か全く述べられていない。
 しかし少し調べてみると、この区間にも隧道、橋梁を含む多くの遺構が残存している模様である。他の区間と比べれば歴史は浅いとはいえ、約30年の時を経た現地の状る所ではある。

第一藤沢隧道



 




渡ることが不可能な音無沢橋梁を回避して、一旦国道418号へと復帰したが、橋梁の平岡側へと直接アクセスすることはできず、斜面をさまよって出たところは第二藤沢隧道の平岡側であった。
 
通り過ぎてしまった藤沢橋梁及び第一藤沢隧道と音無沢橋梁の平岡側は当然気になるところなので、逆行にはなるが少しの間鶯巣側へと進む。













 藤沢橋梁を渡ると、すぐに第一藤沢隧道に到達する。
 
 簡易な扉付きのフェンスが取り付けられてはいるが、ご覧のとおり全開である。たとえ施錠されていたとしてもこの高さではここまで登ってくる物好きたちを止めることはできそうにはないが。
 
フェンスの上部に取り付けられている木材とネットできた物体はは過去に設置されていた柵の名残りであろうか?またプレートの上の数字は隧道の通し番号らしいが消えかかっており読み取れない。
 内部はというと、わずかに右にカーブしているようで、出口の光は僅かに見える程度だ。














 

 プレートには延長119とあり、今まで通過した隧道の中ではもっとも長そうだ。
 
少々見ずらいが、途中で強度に問題が生じたのか中央部には古レール転用と思われる保支工があり、その先は内壁の雰囲気が違うことからもわかるようにコンクリートがより厚く巻きなおされているようだ。
















 





 さて鶯巣側はというと、こちら側にも同じような扉付きのフェンスが取り付けられているが施錠されることもなく開いていた。また日差しが当たって見ずらいがこちら側にも木材とネットの物体は取り付けられている。

















 隧道の先はすぐに先ほど渡れなかった音無沢橋梁の対岸になっていて、この画像に扉の一部が写っていることからも分かるように殆どスペースが無い。
 
こちら側も結構太い木が橋梁を突き抜けている他には、一番手前の保線用渡り板だけが一枚だけ撤去されずに残っているのが目についた。 
 
さて、これで第二藤沢隧道までの踏破が完了したので、再開地点まで戻りいよいよ平岡方面へと進んでゆくことになる。


不動隧道





 再び第一藤沢隧道、藤沢橋梁、第二藤沢隧道と順に通過し、これから先は未踏の部分を進んで行く事になる。
 
第二藤沢隧道と次の不動隧道の間は、この区間には珍しく平場が続いておりレールや枕木も残っている。またしても線路以外のレールが置かれているが、よそから持ち込まれたものなのか錆びつき具合が違う。
 
このように日当たりのよい場所だというのに籔化していない所をみると、定期的に管理の手が入っているようだ。














 




ほどなく不動隧道が見えてくる。斜めにカットされたような抗門が印象的だが土被りは少なく、長さも50m程だと思われる。
 
 平岡側だけに扉付きフェンスが設置されているのはなぜだろうか?
















 

 足早に不動隧道を抜けると、すぐに精進沢橋梁へとかかる。
 
 ここはご覧のとおり道路との高低差があまりなく、しかも真下には何かの事務所が建っていて、それなりに人や車が出入りしている様子が伺える。
 
 そんな訳で、保線用通路が残存している上に画像では見ずらいが次の精進隧道がすぐ先に見えているとはいえ、渡るのが憚られる要素がたっぷりである。














 

 そういう訳で精進隧道である。ここも第一藤沢隧道の平岡側と同じく手前にスペースが無く引いた写真が撮れない。プレートの反対側には黄色地に黒ペンキで96と書かれており最初の焼山隧道が92だった事を考えると豊橋からの隧道の通し番号であろう。
 
飯田線でも隧道が存在するのが実質本長篠から先の区間と考えると平岡までの約60km区間に100ヵ所近い隧道が存在することになり沿線の地形の険しさが伺える。
 
ここの扉は今までと違いちゃんと閉まっていたが特に施錠されているという訳ではない。


精進隧道





 


 開けた扉は内側からしっかり閉め、内部の探索にかかる。隧道は途中でカーブしているのか出口は見えず、それなりに長そうである。
 
 今までと違い下半分が素掘りになっているのは、それだけ硬い安定した岩盤に掘られているということであろうか。
 
 そういえば現役のJR線には、道路トンネルでは珍しくもない素掘り隧道が一か所も存在しないとどこかで見たような気がするか本当なのであろうか?確かに今まで車窓から確認した限りでは無いが。










 


 このペンギンズバーというサントリーの缶ビールは、調べた所昭和59年に発売され結構ヒットしたというもので私も幼少の頃ながらかすかにテレビCM 等の記憶がある。
 
 昭和59年というと、線路切り替えが昭和57年のことであるから飯田線の乗客が窓から捨てたものでは無いということになるだろう。
 
しかしこんな真っ暗な廃隧道の中間地点で缶ビールを飲んでポイ捨てするという状況はどうにも想像しにくいのだが。



















 
 さらに進むと、隧道は左にカーブしておりようやく出口の明かりが見えてくる。
 
 それよりもこの葉のついた枯れ木である。ライトに照らされたこれを最初に確認した時はかなり遠くからだったということもあり、一瞬何か分からずかなりビビった。100%外部から持ち込まれたものであろうが全く意図が掴めず謎である。
 
抗門の近くは強度の関係か全面コンクリート巻きに変わっており素掘りの部分は無い。












 


 精進隧道を抜けると最後の橋梁、戸面沢橋梁にかかる。すぐ先に対岸が見えており短いが、無理して渡る気にはなれない状況だ。
 
一旦桃難沢橋梁の先に置いてある自転車を取りに戻り、橋梁の先から再スタートをすることになる。


精心滝







 炎天下の国道418号を再びてくてくと10分程歩いて自転車を回収し、道路から見える旧線の遺構を確認しながら平岡方面へ進む。
 
先ほど通った精進沢橋梁の奥には橋梁と隧道の名前の由来にもなった滝があるので寄ってみる。















 






 この古びたアーチ橋?は国道の旧道のもので、滝へ行くために残されているようだ。
 下を流れる川は街中の水路のようになってしまっているが、橋梁は旧来の姿を留めている。









 







 これがその滝である。案内板には二つ前の画像にあるように浄心の滝と書かれているが、地図上では精心滝となっている。
 
 普通に考えれば現地の案内板のほうが正しそうに思えるがそう単純なものではないようだ。滝は10m程の落差を一気に落下するもので、今日は水量は少ないもののこんな暑い日は特に涼しげだ。



















 現国道、旧道、旧線の位置関係がご覧頂けるだろうか。
 
 このように恐らく線路切り替え後に建てられた建物が橋梁下に密着した状態では撤去も容易ではないと思われ、このままの状態がしばらく続くのではないかと思われる。


大崩隧道








 
戸面沢橋梁の先へは直接アクセスすることはできず、そのまま自転車で国道を進む。
 するとネット上でも良く見かけるこの場所に出る。ここは大崩隧道と金毘羅隧道の間をつなぐロックシェードで、旧線探索はいよいよクライマックスを迎えることになる。













 





レールが残る廃隧道に丸い窓から日差しが差し込むここは、比較的簡単に訪れる事が可能なのにもかかわらず廃線探索の魅力を存分に感じさせてくれる場所で人気が高いのも頷ける。
 
 ちなみにこの画像は鶯巣側を向いて撮影されており、ロックシェードの窓から先が大崩隧道ということになる。















 

やはり大崩隧道の抗口と戸面沢橋梁の平岡側も確認しておきたいので、一旦鶯巣側へ進み外へ出る。このときはこれで渡れない橋梁上を除いて旧線上の全踏破は確実だと思ったのだが。




















 再び大崩隧道へと戻り平岡側を望む。
 
やはりここは印象に残る場所である。
 
 残る隧道は後一本のみ。











金毘羅隧道










 ロックシェードの部分を通過し最後の隧道、金毘羅隧道へと進む。
 
 出口は全く見えずこれは長そうである。やはりレールと枕木がそのまま残存しているが、半分埋もれかけており、今までの隧道にはない言葉では言い表せないような不気味さも漂っている。















 


 100m程進むと、路盤に溜まった砂?はその厚さを増し、枕木やバラストもほぼ埋もれてしまうほどになった。レールも外され一か所にまとめられている。
 
そして前方の様子に変化がありそうだ。土砂が高く積み上げられている様子がライトに照らし出された。















 50cm程高くなった路盤を50m程行くと、左側の側壁だけが素掘りに変わり、そしてその辺りから唐突に水没が始まり出口は確認できなかった。
 
 帰宅後画像の明度を最大まで上げて確認したが見えるのは闇ばかりで、水没地点の先がどうなっているかは謎のままである。
 
この日は水没を想定していなかったのでそのまま引き返したが、それほど水深は深そうでもないのでいずれ再訪しようと思っている。


  2009年8月 予定通り探索しました。

 結果はこちら















 左に写っているのは、ようやく長い藤沢隧道を抜け所蛇川橋梁にかかる現在線である。中央の橋台が旧線の鶯巣側のもので位置的に現在線と交錯しているように見える。
 
 さらに旧線の平岡側橋台は、現在線に再利用されているようでどのように橋梁の架け替えを行ったのか気になる所だ。
 
 さて金毘羅隧道の平岡側抗口だが、画像の中央辺りに見える筈なのではあるが生憎樹木が茂っていて確認できない。
 
 また最短距離で辿り着くには見るからに私有地な場所を通らなくてはならず、この日は探索を断念した。しかしどうやら塞がれているようなことは無いようなので、時期を選べばこの場所からでも確認できる可能性はありそうだ。

















 所蛇川橋梁のすぐ先で、新旧線は合流して旧線探索は終わりとなる。金毘羅隧道の平岡側は確認できなかったが、おおむね満足のいく成果をあげる事ができた。
 
 特急停車駅の平岡駅は宿泊施設と合築になっており、日帰り入浴も可能なので汗を流しさっぱりしてから列車に乗ることができる。




  参考文献 笠原香 塚本雅啓著 タイムスリップ飯田線 大正出版
         宮脇俊三 編著       鉄道廃線跡を歩く\ JTBキャンブックス