旧釜トンネル

 日本を代表するといっても過言ではない有名観光地上高地と、国道158号との間に存在する釜トンネル。
 上高地へ行った事のある人ならば、たとえ道路やトンネルに興味のない人でも強いインパクトを残す狭さ、暗さ、長さを兼ね揃えたトンネル界のカリスマ的存在であったが、近年新トンネルが開通しその姿を大きく変えたという。
 通年のマイカー規制が敷かれ、自家用車での通行が不可能な釜トンネルだが、自転車の通行は規制対象外であり2009年10月、現在の姿と旧トンネルの存在の確認に挑んだ。

現釜トンネル

 早朝に高山市街を出発し、いくつもの峠を越えようやく到達した現釜トンネルだが、入口脇にはその歴史および構造について大変に詳しい看板が立てられており、まずはその歴史をおさらいしておく。

 釜トンネルの歴史(看板の年表より抜粋)
1926(大正15)釜トンネル着手か
1927(昭和2) 沢渡〜上高地間の車道開通、釜トンネル開通か
1933(昭和8)大正池まで乗合バスが入る
1937(昭和12)釜トンネル延伸完了L=510.6mに
1950(昭和25)釜トンネル抗内の改修工事が完了
1964(昭和39)釜トンネル抗口(上高地側)にシェッド竣工
1975(昭和50)上高地マイカー規制始まる
1995(平成7)上高地公園線・釜上シェッド完成
1996(平成8)マイカー規制通年に
1999(平成11)大雨により釜上鋼製シェッド被災
2001(平成13)釜上トンネル本坑掘削へ着工
2002(平成14)釜上トンネル開通
2003(平成15)釜トンネル(延伸部)坑掘削へ着工
2004(平成16)釜トンネル(延伸部)貫通
2005(平成17)釜トンネル全線開通


 釜トンネルの他に釜上トンネルという聞きなれない単語が出てきたが、じきに解るので少々お待ちを。
なお左の銘盤には釜トンネル 2005年6月完成 延長1310m 幅6.0(7.0)高さ4.7 施工延長705.0mとあるが、この「施工延長」の意味も後に判明する





これは看板先ほどの年表の横にあった航空写真だが、釜トンネルの開通から現在までの変遷が非常に解りやすく示されている。

 ちょっと見ずらいので補足すると、で示されたのが平成17年完成の「釜トンネル(延伸部)」であり、まさに今目の前にある抗口がそれである。

 続いて黄色は旧来のルート、この看板の左側、警備員のいる所から始まり釜下ロックシェッド〜既設(旧)釜トンネル〜釜上ロックシェッドと繋いで上高地を目指した長い歴史を誇ったルートである。
 最後には先ほど出てきた平成14年完成の「釜上トンネル」。平成11年の大雨被害による迂回ルートとして掘削され、年表と航空写真を照らし合わせれば、完成当時は既設(旧)釜トンネルと接続され、平成17年に釜トンネル(延伸部)の完成により接続し直されたことがわかる。
 
 



 つまりルートの変遷を色で示せば沢渡側から 
大正15年〜平成14年 黄色 (釜下ロックシェッド〜既設(旧)釜トンネル〜釜上ロックシェッド→上高地へ)※釜下ロックシェッド及び釜下ロックシェッドは昭和39年以降の竣工
平成14年〜平成17年 黄色(釜下ロックシェッド〜既設(旧)釜トンネル〜釜上トンネル→上高地へ)
平成17年〜現在   (釜トンネル(延伸部)〜釜上トンネル→上高地へ)
 となるが、黄色 白 赤 の3つのルートが錯綜する部分が現状どうなっているのか非常に気になる所だ。





 上の写真に見えるバス停のすぐ脇に旧釜トンネルへと続くであろうロックシェッドの入り口がある。

 奥には車が停まっているのも見え、特に閉鎖されているわけではないが、「では、早速」というわけにはいかない。

 入口の前には釜トンネルへの一般車の侵入を監視する警備員が二人も立っており、奥を覗き込むことすらかなわない。














そういうわけで、こちら側から旧トンネルにアクセスすることは不可能なので、とりあえず現釜トンネルを抜け上高地側を目指すことにする。

 一般車の侵入に目を光らせる二人の警備員だが、自転車に乗った自分には一瞥をくれることすらなかった。

 入口の11%標識は伊達ではなく、すぐに強烈な登り勾配が始まる。

 事実上、上高地内の関係車、バス、タクシーしか通れないとはいっても交通量は結構多く、次々に車が追い越して行くがそれなりに幅広な歩道があり、自転車も安心してゆっくり登ってゆくことができる。

 かつて上高地を目指す多くのサイクリストたちを苦しめたという旧釜トンネルとは全くかけ離れた安全な現トンネルだ。









 


 最も軽いギアでゆっくりと登ってゆくと、中間地点に謎の金属製の扉を発見。

 どこに続いているかは、予想もつくのだが…。

 ちなみに当然というかしっかり施錠されており手を掛けてもびくともしなかった。



上高地へ




 全長1,310m 高低差145m 平均勾配10,9%を攻略し、現釜トンネルを抜ける。

 最後は乗ったり押したりで、25分近くもの時間を時間を要したが、帰りはまさにあっという間であろう。



















 ここまで来たからには、やはり上高地には寄っておこう
 
 釜トンネルを抜けてから上高地までは、地図を見る限りでは、梓川沿いにほぼ平坦な道が続くように見えるのだが、実際に自転車で走行してみれば意外に登りがきつい印象でそれ程楽ではない。
 
 この日は紅葉シーズンにこそまだ早いものの、これ以上無い程の晴天に恵まれた日曜日とあって、多くの観光客、ハイカーで賑わっている。

 しかし当然というか自転車の姿は見当たらず、ここにいる関係者以外の人間のほぼすべてがバスORタクシーで訪れたということであろう。

 自力で上高地に辿りつたのが自分だけだと思うと、やや優越感を感じる所だ。














 上高地観光もそこそこに、釜トンネルへと戻る。

 既に夕暮れも近い時間で、この時間に上高地に入る車は僅かだ。





















 さて旧道だが、現釜トンネルの脇にいかにもな2車線の舗装路が続いており、この先に旧釜トンネルがあると見て間違いないだろう。

 街中の公園の入口にあるような簡易な車止めと壊れたコーンが見えるが、特に立ち入りが制限されているような様子は無い。














 




 100m程行くと、「釜上洞門」が目に入る。

 見るからに新しく、また頑丈な造りの洞門だが、それもそのはず、これは平成7年竣工から現ルート完成までの僅か10年しか現道として使われなかった悲運の建造物である。
 
 この辺りの歴史と道の変遷は先に述べた通りである。 


旧釜トンへの道程




 
 暫く行くと釜上洞門は終わり、そのまま既設のシェッドに変わる。
 
 これが年表にあった昭和39年完成のシェッドか。

今だ通行止めの気配は見えず、このまま釜トンネルまで到達できてしまうのであろうか。

 左カーブの先に何かありそうな雰囲気だが、果たして…。













 かまとんねる!

 ここまで来る間にすっかりお馴染みになったこの様式のプレート。
 19は松本から数を重ねてきてのラストナンバーである。
 
いままでの書式(下参照)にのっとれば「かま」になるはずだが、「かまとんねる」なのは、単に語呂が悪いという理由だけであろうか。
 510,6mという延長は昭和12年の延伸時の長さと一致する。








 
しかし、封鎖…。


 頑丈そうな扉は勿論しっかりと施錠されており、上部、そして道の外側まで鉄壁の守りを誇るようにも見えるが、なにか忘れていないであろうか。


 上高地を出て以来、今までもずっと続いてきた下り勾配だが、ここへきてそれが加速度的に増して行くのを感じる。

 そして右カーブの先に…。










 釜トン ついに捕捉


 これが、トンネル界のカリスマ「釜トン」こと釜トンネル。

 現役当時信号機による相互通行が行われていたというのが納得できる狭さである。

 ここもまたしっかり施錠されているが、第一の封鎖と同様に…。

 先に見える明かりが気になる所だ。


内部




  


 永い間、急勾配を登り詰める車の排ガスに晒された抗内は真っ黒に汚れていて、石炭煤のこびりついた鉄道トンネルのようでさえある。
 
  路面、壁面も相当に老朽化していて、ほんの数年前まで現役であったというのが信じられないほどだ。 















 これが、明かりの正体。

 100m程進むと、戻る方向に洞内分岐が現れる。
 
 振り返れば、左が今来た上高地側抗口、そして右がなぜか明かりの灯る分岐である。

 そう、これこそ平成14年の釜上トンネル完成から平成17年の現釜トンネルまでの3年間のみ使われた連絡道の無残りであろう。

当然その先も気にかかるが、とりあえず先に本坑を見てゆく。

 無人のトンネルに明かりが灯り続ける理由だが、この部分、もともとはいま現役で供用されている先ほど通ってきた「釜上トンネル」の一部として掘られた筈なので、本坑と電源系統が同一の為ここだけ消灯できないといったところか。 

 













 強烈な下りが続く坑内を進むと、コンクリート壁と金属板で補強された区間に出る。

 老朽化したイメージしかない旧釜トンネルだが、地道な改修は行われていたようだ。
















 素掘り



 さらに100m程進むと荒々しい素掘りの区間となる。
  
 今までコンクリート→金属板→素掘りと進んだが、ほぼ中間地点に位置するこの辺りはそれだけ地質が安定しているという証拠か。












そして





 素掘りの区間は50m程で終わり、再びコンクリート+金属板の補強が始まる。

 ここは補強の断面が剥き出しになっており、覆工コンクリートの厚さが分かる。
 
 その分道幅は減少してしまっているが。

 坑内の照明はよくあるナトリウム灯ではなく、写真に写っているような蛍光灯しかなかったようで、現役当時の薄暗さがうかがい知れる。













 下り勾配に追い立てられるように進むと、左カーブの外の明かりが見えてきた。

 あの先には洞門が続いていて、すぐに見つかることは無いと思われるのだが、もう充分に釜トンネルは堪能したので、ここで引き返す。

 ちなみにこの辺りは大分拡幅がすすんでいて、普通車同士ならば何とか離合できそうだ。















 そうそう、先ほどの分岐だが、予想通りとういうか現釜トンネルで見た金属扉の反対側であろう。

 大きく非常口と書かれており、取っ手の所には「引く 軽く開きます」「車道危険」と書かれているが、幸いにというか開かなかった。

 施錠された非常口というのもどうかとおもうが、非常時には通れると信じたい。

 なお先ほど考察した、ここに明かりが灯る理由だが、非常時の安全確保の目的もありそうだ。

 あと侵入防止の目的もあるのかも…。















 さあ戻ろう。

 この日は日曜日で、時間的にも既に工事は行われていないと思われるが、ここへ来る手前のロックシェッド内には梓川の河川改修工事の関係者の物と思われる道具が置かれており、現道に戻るまでは安心できない。
















 
幸いにも誰にも会わずに現道へ戻ることができた。 ここでの登り返しは疲れた足に結構効く。

 
 なぜこの区間の旧道が解放されているのかというと、どうもこの砂防ダムの下の部分にある、昭和初期竣工という古い堰堤を見学する為のようだ。