国道303号旧道(樫原トンネル〜新北山トンネル区間)後編  


国道303号は岐阜県岐阜市と福井県若狭町を結ぶ路線であるが、途中には県境の八草峠区間を始め、幾つもの旧道区間が存在する。

 今回はそのなかでも旧久瀬村から揖斐川町にかかる区間の旧道を紹介する。

 柵の先へ


 さて、この北山隧道脇の旧旧道?

 通行禁止 危険、この先落石あり、立入らないで下さい
 揖斐川町 中部電力株式会社 との看板が取り付けられている。 (右の看板はごみを捨てるなという内容)

 看板通り一見して大きな石がゴロゴロしており、むしろこの看板が無ければ道とも思わず通り過ぎたかもしれない。

 なお左の法面に接して置かれれいる箱は養蜂の巣箱で、時期がら空き家ではあるが稼働していれば通行の障害になりうる存在だ(ハニートラップ)
 庭石のような大きな落石が転がっていたのは入口付近だけで、50mも行くと道は落ち着きを取り戻す。

 後で考えれば侵入防止のために故意に置かれたものなのかもしれない。

 ともかくこの状況であれば、ここが旧旧道であることはほぼ間違いないであろう。
 柵…?

 道の七分所に突如現れた町中の公園にでもありそうなタイプの鉄柵。

 入口を塞いでいたものと同様な造りであり、そんなに古そうな感じでもない。

 一旦は落ち付きを取り戻した旧旧道であるが、除々に路上の樹木が増え廃道然とした雰囲気が強まる。
 ベンチ…?

 道がやや広くなった所に置かれた2台のベンチ。
 
 柵と同様に比較的最近のものである。

 ともかくこれで、この旧道がそれ程古く無い過去に遊歩道として整備されていたことが確定であろう。

 前回も書いたようにここが揖斐峡と呼ばれる景勝地なのは確かだが、ご覧の通りしっかりと樹木が茂りベンチに座っても川面を愛でることは難しい。

 旧旧道へ

 入口から100m程進んだところか。

 ベンチのすぐ先で崩落が発生して20m程に渡って路面が埋もれている。

 崩落自体は落ち着いていて歩行に問題は無いが、育ちつつある若木が邪魔である。

 
 崩落を過ぎると、再び道は落ち着きを取り戻す。

 岩盤を削っただけの荒々しい法面が、なかなか良い雰囲気を出しているが柵がいかにも無粋である。

 前コマまでの樹木は故意に植えられた「廃道化工事」によるものなのかとも思ってもいたが、この辺りは一本の木も生えていない。
 さらに50m程進むとやや地形が穏やかになる。

 この慰霊碑はすぐ先の西平発電所の殉職者の為のもので、昭和15年の日付がある。

 裏面に描かれた殉職者の出身地は、岐阜、愛知はともかく大分、山梨など幅広い。

 また朝鮮とだけかかれた住所も2名あり、名前も明記されているが(この時代の慰霊碑には朝鮮、中国人は人数のみというものもあるようだ)その名前は日本風であった。  
  慰霊碑から50m足らずでこの地点へ。

 看板には「落石注意 この先通り抜けできません二百五十メートル先で行き止まり」

  二百五十メートル先というのは間違いなくトンネル脇の旧旧道入口だと思うが、そこまでは通行可か?



 旧道接続点 

 その先はというと、道幅こそ1.5車線程ながら舗装された道になり、数軒の民家のあるエリアに通じている。

 この辺りのガードロープは黄色のペイントが施された今まで見たことの無い形のものだった。

 このまま先へ進めば現道へと直接通じているようだが、自転車を置いてきていることもあり先ほど見た北山隧道からの旧道とこの旧旧道の接続点を確かめることにした。

 
 
  北山隧道と現道は現在直接行き来できるようになっているが、本来のルートは結構な下り坂で現道の下をくぐり東側へカーブしてから先ほどの地点へ通じていたようである。

 しかしながら現在では地形が改変され、怪しげなダートの作業道としてルート自体は生きているものの、旧来の道の痕跡は残っていない。
 北山隧道岐阜側(別の日に撮影)

 蔦が良い味を出している。

 左に縦型の銘盤が見えるが。
  「竣功年月日昭和十四年六月三十日 工事請負者 株式會社 間組」  


 このように銘盤にははっきりと戦前の日付が示されており、隣の西平ダムとほぼ同時期の竣工であることが解る。
 旧旧道入口においたままの自転車を回収するため、再び隧道を抜ける。

 出口の先ですぐに急カーブする線形も、いかにも昔の道といった感じである。

 北山橋

 無事自転車を回収し、現道へ。
 
 これほど新旧隧道の対比がはっきりできる場所も珍しいのではないか。

 先にも述べた通り、旧道は隧道を抜けたあと直進して現道の下をくぐるようなルートになっている。
 コマ数が余ったので、ちょっと先にある(旧)城山橋へ。
 車が橋上に停まっているのが見えるが、滋賀側には簡易なゲートがあり、現状通り抜けはできない。
 昭和貳拾七(二十七)年参月竣功

 先ほどの北山隧道よりも新しい戦後の建築物ではあるが、同じコンクリート橋でも現在の橋梁とは違う貫禄のある造りである。
  
 橋の前後はというと、半分廃道に近い状態になっており、徒歩以外での行き来は難しい状況ではあるが、ともあれ旧来の橋がそのまま残っているのいるのは喜ばしいことである。