小和田駅脱出計画(前編) |
飯田線小和田駅、昭和31年の佐久間ダム完成で孤立化し、車道が通じておらず徒歩以外では駅に到達できないとされる超有名「秘境駅」である。1999年頃一度列車で訪れたことがあるが、その時はあまりの人気の無さに恐れをなして大して散策もせずすぐに駅舎へ戻ってしまった。
しかし、今ならばそんなことは無く前回の雪辱が果たせそうだ。
ネット上の情報では坂道を登りに登って天竜川林道までたどり着くのは不可能でないようだが、いかんせん徒歩ではその先、次の大嵐駅、中井侍駅、直線で結ばれる水窪駅まで行くのは困難なようだ。
それならば小和田駅へ輪行して、自転車を抱えて林道へ上がりそこからは舗装路を快走しようと思う。逆も考えられるが、林道にある入り口を見つけるのは困難そうだし、急坂は登りよりも下りのほうがはるかに危険だ。
そういうわけで、自転車に乗り始めた頃から考えていた、「小和田駅脱出計画」が遂に実行される時がきた。
4年後の2009年8月4日に再び小和田駅を訪れ、周辺の詳細な探索を行ったので、4年間での変化及び初回に見落とした所の補完を加えながらレポートします。
基本的に黒枠の画像が2004年のもの、そうでないのが2009年のものとします。旧バージョンはこちら
出発 |
2005年2月2日、ムーンライトながらと飯田線の始発を乗り継ぎ、到着した小和田駅はご覧のような状況だった。 駅への訪問と周囲の散策が目的ならば雪景色も風情があっていいのかもしれない。事実リュックを背負い、カバンを手に持ったいかにも「乗り鉄」風の兄ちゃんが一人興奮した様子で降りていった。 しかしこれではどうにもならない。今回は中止である。 2005年の駅構内 約三ヶ月後の2005年5月1日、再び小和田へとやってきた。前日にかなり雨が降り、路面はやや濡れているが天気は良くコンディションはまずまずだ。 降りるのは自分一人か、もしくはゴールデンウイーク中の愛好者がいる程度かと思っていたが、実際には話に聞いたことがある郵便配達の女性も降りた。 駅には立派なカメラと三脚を持った男がいたが、こういうことは日常なのか女性はカメラには興味を示さずスタスタと歩いていった。話を聞くためか男は郵便配達の女性を追いかけていったが、どうなったのだろう。 この頃はまだ交換設備も健在で、駅舎と反対側のホームに停車する列車もあったはずだが跨線橋等が無かったのは勿論のこと構内踏切もなかったような記憶もある。 2009年の駅構内 ご覧のように交換設備は無くなり棒線化された小和田駅だが、駅の乗降者数は2005年よりも減少するどころか、「秘境駅」ブームで増加しているような気さえする。 旧型電車が去ってから長らく主役を張っていた119系も画像の313系にとって替わられようとしている。 2005年の駅舎。 旧来の姿を留めたそのままの味わいのある木造駅舎が健在である。 調べると豊橋〜飯田間にCTCが導入された昭和59年2月までは有人駅であったようだが、その頃には駅周辺も既に今と変わらない状況となっていた筈で、利用者数も極めて少なかったのであろう。 2009年8月の駅舎。 2009年8月4日、4年ぶりに小和田駅に降り立った。 朝早い列車だが18キップの時期ということもあってか、カメラをもった年配の男性も降りた。 駅舎自体に大きな変化は無いが、ホーム側の庇部分の補強等細かい変化は見てとれる。あと巣箱?の場所が変わっている? しかし小和田駅としてはこの間に交換設備の撤去による棒線化という大きな変化があった。 とはいえこの駅の特殊さゆえ駅自体の廃止はこれからもまず無いのであろう。 再び2005年の駅舎内部 駅舎の内外は、数年前と変わっておらず、一時期噂された駅舎の解体も無いようだ。 駅ノートには多数の書き込みがあり、相変わらずここを訪れる人は少なくない。 2009年の駅舎内部 これも基本的に変わっていない。出札窓口に張られたAUのポスターが目につくが、キャンペーン期間が終われば撤去されるものであろう。 しかし駅舎自体の老朽化は確実に進行しているはずで、状態が危険とJR東海に判断されればあっさりと簡易駅舎に変わる日は来ると思われる。 |
廃屋群 |
小和田駅周辺ポイントその3 斜面に建つ廃屋群 駅舎のすぐ下の斜面に建つ結構大きな建物だが、実はよく観察したことも無い。 今日は時間も充分なのでちょっと寄り道してみる。 右側の半分崩壊した建物は、よく知られている通り製茶工場の跡のようだ。 内部には当時のいかにも実用本位といった感じのゴツい機械がそのまま残されており、多くの人がここで働いた面影を充分に伝えている。 この画像では少し見ずらいが、正面の白文字は落書きの類ではないようで(昭和)39年5月2日から52年までの5月中旬の日付が1年づつ上から順に書かれている。(昭和40年のみ抜け) 5月中旬というのは製茶のシーズンであり、昭和39年から少なくとも52年まではここが稼働していたという証と言えるであろう。 もう一軒のほうはというと、こちらは製茶工場と比べてしっかりしており、状態も良い。 きちんと施錠されているので窓越しの観察となる。 こちらは民家の様で、普通に考えれば先ほどの製茶工場と関係のある茶農家であろうか。 結構大きな建物で「御屋敷」の雰囲気さえある。 引き戸に立てかけられたプレートが非常に気になる所だが、自分の視力では何が書いてあるのかは確認できなかった。 しかしここに人が定住していたころからあるものとは思えず、その後の利用をうかがわせる。 少し調べたところやはりここは「御成婚」ブーム後のイベントがらみで使用されたらしい。 隣の部屋はかまどのある台所のようだが、雑多な物が残されており生活感が充分だ。 良く観察すればいかにも古めかしい調理器具等の他に比較的最近のものと思われるポットや岩谷のガスボンベもあり、近年のイベントでの使用を裏付ける。 そういえば、自分が初めて小和田駅を訪れた時(1999年頃)にはこの建物のすぐ横に木製のステージ状の建造物があった記憶があるが現在では跡形もない。 |
高瀬橋へ |
いままで、2009年のレポの中には自転車が全く登場しなかったが、当然連れてきております。 先ほど塩沢集落1時間とあったが、自転車「持参」では寄り道しなくとももっと掛るであろう。 そんな中でもこの辺りは数少ない自転車に乗車して徒歩以上のスピードを出せる所である。 小和田駅の前から始まるこのコンクリート舗装の細い道だが、今後レポ内では「小和田道」と呼ぶこととする。 1コマ前でスピードが出ると書いたが、小和田道は飯田線のトンネルの上を乗り越えるべく早くも急勾配に差し掛かり、徒歩と変わらない程度のスピードまで落ちる。 この辺りはよく手入れされた杉の植林地になっていて、眼下に臨む淀んだ色の天竜川と共に秘境駅の「秘境」からイメージされる大自然とはかけ離れた雰囲気だ。 しかし車道の通じていない深い山中であることには間違いなく、あたりは物音一つせず静まり返っている。 しばらく行くと、舗装された小和田道と細いダート道が分岐している地点に出る。 小和田道を登って行けばMさん宅と呼ばれるこの辺り唯一の民家の前を経由して、塩沢集落方面を目指す事になり、左のダート道を行けば高瀬橋方面となる。 今日は当然高瀬橋を目指す。 2005年の同じ場所 この時は高瀬橋にも寄る事無く、塩沢集落方面へ進んだがこの辺りの雰囲気も殆ど変っていないようだ。 すぐに大きな崩落に差し掛かるが、これは規模こそ大きいもののかなりの年月を経ているようで安定しており、また崩落の上にしっかりとしたルートができていて、自転車同伴でも充分に越えることが可能だ。 崩落を越えると道は下り勾配に変わり、自転車に乗れるような所も現れるが帰りが思いやられるというものである。 乗れないところは自転車を谷底に落とさないように慎重に進み約5分が経過すると…。 高瀬橋。 思ったよりも大きそうな吊橋である。 状態がどうなっているかは調べてはいるのだが果たして…。 中編へ |