近鉄大阪線青山峠旧線(三重県)1 



近鉄大阪線伊賀上津間〜榊原温泉口間は1975年(昭和50年)に複線の新線に切り替えられ、いくつもの隧道を連ねた峠越えの旧線は放棄されている。

 その新線切り替えを急ぐ契機となったのが1971年(昭和46年)に(旧)東青山〜榊原温泉口間の総谷トンネルで発生した特急列車同士の正面衝突事故であり、今回のレポートはその現場でもある。

 ここを訪れたのは2008年8月で既に丸4年が過ぎようとしており、記憶違い等あるかもししれないが御容赦願いたい。

 東青山駅

 2008年8月12日

 近鉄大阪線東青山駅

 近鉄大阪線、青山峠区間に位置する駅で周囲に民家は無く、乗降者は極めて少ないが、運転関係の駅員はいる(集札無し)駅である。

 駅周辺は「四季のさと」として整備され、行楽シーズンにはそれなりの利用がある。
   早速の総谷トンネルを示す案内。

  この一帯の「四季のさと」の整備は単なるハイキングコースとしてではなく近鉄による慰霊の意味も込められていると思われ、事故現場の総谷トンネルへの案内も特に不思議なものではないと思う。
 程なくして総谷トンネル大阪側。

 前述の通りATS故障に端を発するブレーキ異常により暴走した名古屋行き特急が垣内信号所の赤信号を時速120km以上で突破し、このトンネル内で脱線横転した所へ対向する難波方面の特急が正面衝突し死者25名の大惨事となった。
 トンネル内部へ

 以前はしっかりとした柵があったようだが現状ではフリーである。

 そのような事故現場ながら以前は資材置き場になっていたといい、確かにそんな痕跡もある。

 車の轍は鮮明で、保線関係車の往来があるのであろう。
 トンネルを抜けた先も旧線跡は続くが、今日はこの先へは行かず、再び総谷トンネルを抜け、大阪方面へと進み旧西青山駅を目指す。

 自分は「心霊スポット」など比較的臆せず行くほうだと思うがこの場所は、確実に多くの死者が出た現場であり、さすがに気が重く、信条である「楽しい冒険」には到底なりえない。

 二川トンネル

 再び東青山駅前を通り、バラストの残る旧線跡を500m程進むと、二川トンネルへ。

 東青山駅からここまでも垣内信号所の構内であったはずだが、特段の痕跡は発見できなかった。

 

 レールこそ撤去されているものの現役時と変わらず厚くバラストの残るトンネル内。

 帰りの事を考え、自転車同伴ではあるが出口は全く見えない漆黒の闇なうえ、深いバラストすぐにスタックしてしまい乗車は困難である。

 しかもここはブレーキの効かない列車を120kmまで加速させた急こう配区間、この先も苦労が予想される。
 15分間黙々と自転車を押し、全長799mのトンネルを突破。

 柵は完全に壊されているがこちら側にも名古屋側と同じロープと看板がある。

 外の日差しが眩しい。
 外の炎天下との温度差で曇るメガネを拭くと、そこは次の溝口トンネルとの間、50m程の明かり区間。

 隧道を振り返るとアーチ部分のみコンクリートブロックで造られたこの隧道の特徴がよくわかる。

 左に見える階段は「四季のさと」から続くハイキングコースのものだが大分老朽化しているようだ。

 溝口トンネル 

 大阪側にはすぐに次の溝口トンネルが待ち構えている。

 左手の古びた休憩所が何とも不気味だが、ハイキングコースを示す指導標は新しく、手前の階段も現役のようだ。

 昭和の時代には行楽シーズンに東青山行の臨時列車も運行されていたようで、この青山高原界隈は今のイメージよりもメジャーな場所だったようだ。



 短い明かり区間に別れを告げ、溝口トンネルへ。

 このトンネルの全長は931mもあり、自分が今までに入った鉄道廃隧道の中でも有数の長さだ。

 今はまだ入り口の明かりが眩しいが、すぐにトンネルはカーブしライト無では1m先も見えない闇へと進まなくてはならない。
 一見してキロポストのようだが「8」の数字はなにを示しているのであろうか。

 トンネル内の残り距離?
 これは間違いなくキロポスト。

 30 1/2 とも読めるが、この場所は起点の大阪上本町から90km程の場所にありちょっと解らない。
  
 下に9が頭の数字がかすかに見える気もするが。

 この画像は現地でのフラッシュのみで未加工だが、実際にはさらに暗い漆黒の闇の中である。
 13分かかってようやく出口が見えてくる。

 この区間の隧道は昭和5年に当時の参宮急行電鉄が
開通させたもので、前述の通り昭和初期の竣工らしく場所打ちコンクリート+アーチ部分のみコンクリートブロック積みという構造になっている。

  アーチ部分に白く写っているのは架線吊りか。
 17分かかってようやく外へ。

 大阪側ポータルは草木に覆われている。

 滝谷トンネル

 まだ、続きます。

 100m程先には早くも次の滝谷隧道が見えている。

 手前の短い橋は鉄道由来だと思われるが車両通行が可能な状態に改装されている。   
 滝谷トンネル 延長726m

 苔むしたポータルのアーチ部分は一瞬煉瓦造りにも見えるが今までと同様のコンクリートブロック製である。

 当然のように扉は壊され、通行に問題は無い。

 
 こちらでは明度アップの画像を。

 この滝谷隧道も今までと同じく途中でカーブしており出口を見通すことは出来ない。

 今まで二川トンネル、溝口トンネルと1000m近い廃隧道を抜けてきたが、それによってこの暗闇の上り勾配の中で深いバラストの上自転車を押すという作業に慣れるということは無く、肉体的にも精神的にも少々疲労気味である。 
 12分で出口へ。

 隧道の末端区間は地盤が弱いのか、古レール製の補強が為されている。

 この先は旧東青山駅構内へと続く筈だが、さらにその先待ち受けるには…。




 旧東青山駅

 大阪側ポータルを振り返って。

 こうしてみると、隧道前にも4輪の轍がかすかに見て取れるが、現状車両の通行はないようだ。

 相変わらずのライオンのイラストの書かれた「あぶないからはいってはいけません」だが、周囲に民家は全く無く子供が近寄るような場所ではなかろう。   
 そして…。

 真夏の藪をかき分けて200m程進んだ所が旧東青山駅。

 外部へ抜ける道は荒れた林道とハイキングコースのみで、もっぱら行楽と列車交換の為の駅だったようだ。

 ここには相対式ホームと島式ホームが各一本あり1〜3番線で列車交換と特急列車の退避ができるようになっていたようである。

 構内に茂る樹木が廃止からの時間を感じさせる。

 
 ここまで連れてきた自転車と島式ホーム。

 現役時代は相対式ホームの1番線が名古屋、伊勢方面、島式ホームの2番線が大阪方面に主に使用されていたようだ。

 かつてはホームの両側にいくつもの建物があったようだが、時期的なものもあり、その様子は確認できない。  
 島式ホームの方はコンクリートで舗装され、懐かしの「白線」が残るが土台は木造である。

 奥に見えるのが駅本屋側のホームでこの画像では判然としないがブロック積みのしっかりとした造りになっているようだ。

 2本のホームの間が妙に開いているようにも見えるが、現役時代の画像を見ると大きくカーブした構内にそれぞれ独立した架線柱が立っていた様子がわかる。
   振り返って見る夏草生い茂る駅構内と滝谷トンネル。

 冬に来ればまた違った発見があったことであろう。
   そして…。

 先にあるのが、最終関門、青山トンネル。

 全長3432mを誇る内部から噴き出す風の冷たさはは丸四年近くたった今でもハッキリ覚えている。
 
 例によって柵は壊され、侵入に支障はないが

 入れませんでした…。

 今までで蓄積した主に精神な疲労が暗闇への侵入を拒否し、一歩も足を踏み入れることなく此処を去ることとなった。

 ちなみにこの青山トンネルを抜けた先は乗馬クラブの私有地となっており、やはり柵は無いものの通り抜けは容易ではないようだ。
 
   旧駅本屋側から続く林道を進むとそこは旧線区間の大半を置き換えている、垣内トンネル(1165m)と私鉄最長を誇る新青山トンネル(5652m)の間の僅かな明かり区間。

 列車で通過すればほんの数秒の出来事である。
   旧東青山から荒れた林道を伊勢方面へ戻る形で4キロ程進み、旧垣内集落を抜けると、ようやく国道165号へ。

 ここはスタート地点の東青山駅から直線距離で2キロも離れていない。

 
   最後に現役の西青山駅を通過するレール輸送列車?の画像でこのレポートを締めくくることとする。

 奥にみえるのは新青山トンネル大阪側ポータルである。