国道163号長野峠 長野隧道



  三重県津市と伊賀市の間に位置する長野峠は古代からの長い歴史を経てきた峠だが、現在でも3代のトンネルを含む四代の道が現存しているという。

 その中でも明治のトンネルは全国有数の大物との情報である。


 出発

 2009年5月9日

 三重県津市(旧美里村)と伊賀市の間に位置する長野峠を目指し、国道163号を行く。

 峠には大物明治隧道が眠るといい、ぜひこの目で確かめたい。 
 津市から旧美里村地域にはいって程なくして見つけた、民家の庭先のような場所にある「道路開鑿紀念碑
」もともとこの場所にあったのか不明だが、車でならば見落としそうなさりげなさである。

 アプローチの機動性が良くない自転車オンリーの探索だが、こういった発見もある。

 
 裏側

 明治什五年七月建立

 五百野 人民一同

 この辺りの地名は五百野といい、景行天皇の皇女五百野姫がこの地で没したに由来する。

 ちなみに景行天皇の在位は西暦71年から130年までで、日本書紀によると106歳 古事記によると137歳!で没したという

 さすがにこの辺りは歴史が古いが、どのような道路が開削なのかは不明のまま。
 
 

 美里村

 開削記念碑のすぐ近くにあった「美里村ガイドマップ」地図右上を良く見れば、それらしきトンネルのイラストと説明が…。

 それなりに有名な物件だとは知っていたが、すでに山中にひっそりと隠れるという状態ではなさそうだ。

 ダブルクリックすると超拡大します。
 三郷地区に入ると、ようやく山が近づく。

 この標識は合併以前は美里村 三郷となっていたと思われるが、よくある「村」の部分だけの貼り替えでなく「美里村」全部が新しいプレートで貼り替えられるという律義な仕事ぶりである。
 トンネルの名前の由来となった長野宿を過ぎると、いよいよ峠道らしくなる。

 旧長野トンネル通行止め
 
 一瞬?と思ったが、この旧長野トンネルとは昭和のトンネルを指しているのであろう。

  
 新長野トンネル開通してました。

 銘盤によると

 新長野トンネル 2008年3月

 延長1966m 幅7.0m
 高さ4.7m


 なかなかの長大トンネルぶりだが、とりあえず今日は用は無い。

 明治隧道 

 旧道は新トンネルの少し手前から分岐しているが、その長大ぶりが示す通り、すぐには旧トンネルは見えてこない。
  いくつかのカーブを経て峠の鞍部を望める場所に達すると「旧」長野トンネル。

 昭和12年竣工 延長303m

 歴史ある戦前派のトンネルだが、今日のメインターゲットはまだ先。

 予告通り通行止めのようだが、力ずくでといった感じではない。

 左側に怪しげな分岐が。

 
  実はというと怪しいというよりも、そのものズバリの内容が看板に書かれており、この先に明治隧道があるのは間違いない所。

 途中には、ちょっとした休憩所まで整備されており、観光地化とまではいかないまでも、かなりの手の入りようである。


 東屋の先、カーブを越えると…。

 ありました、長野隧道。
 
 苔むした巨石によって構成されたポータルの迫力にしばし圧倒される。

 明治18年竣工の100年を超える歴史を誇る隧道だが、篇額が抜き取られているほかは大きな欠損は見られない。
 さて、内部はというと、入り口に堆積した土砂のためか薄く浸水しておりさらに進むと、鉄条網付きのフェンスで封鎖。

 今日は、靴を濡らす覚悟も無く簡単に越えられる封鎖でもなさそうであり、ここは大人しく撤退。
 …なんて書くとよっぽど奥まで入ったような雰囲気だが。

 実はというと、こんな感じで封鎖地点は入り口すぐ近くである。

 

 昭和隧道

 隧道前から反対方向へそのまま進むと、昭和隧道の坑口真上に出る。

 位置関係としては旧、旧々隧道が上下に並ぶように掘られており、昭和隧道の竣工当時には二つの隧道が同時に見えたようだが、今では樹木が生い茂りそれは叶わない。
 来た道を戻り、昭和隧道へ。

 コンクリート製ののっぺりとしたポータルだが右書きの篇額を見る限り、竣工当時の姿をとどめているようである。

 ちなみに2012年現在では鉄柵で完全に塞がれ、このような姿を見ることはできない。


 さて、内部へ…の前に坑口脇を見ると、先ほど見た明治隧道の抜き取られた篇額が。

 「其功以裕」と書かれているそうである。

 また近くにはもう一つの篇額及び、隧道改修記念の碑もある。
   現在入ることは叶わない300m強の内部はしっかりと2車線が確保されており当時としてはなかなかに大断面のトンネルだったと思われる。

 また薄いコンクリートの吹き付けが為されているが、竣工当時は素掘りだった可能性もあるだろう。

 そして

 伊賀側へ。
 
 こちら側もそれ程の違いは無い

 先ほどの画像には写っていないが
3.8mの制限バーは美里村側にも存在する。

 

 
 先ほども見た「道路開紀念碑」

 場所的に隧道完成を機に建てられたと思われ、美里村側のものよりずいぶんと立派なものである。
 さて、肝心の明治隧道だが、それらしき分岐はここの他になく、鳥居の先へGO

  
 ありまし…た。

赤い橋のすぐ先に9割方が埋もれた坑口を発見。

 抜き取られた篇額は先ほど見たうちのどちらかの筈。
 
 思わせぶりな開口具合だが、愛好者へのサービスの訳は無く、完全に埋めたものが自然に開いてしまったのであろう。

 それとも誰かが掘り出したか。
   当然のように覗き込むと、これはダメそうである。

 3m程で大量の土砂で閉塞している模様。
    あきらめきれずに狭い隙間に身をねじ込むとこの結末。

 一見すると石の覆工が破れて土砂が流入しているように見えるが、自然にこのようになったのかは不明。
   冒頭に4代の道と書いたが、明治隧道以前の峰越えの道もハイキングコース程度には整備されているようで現在も通行可能の模様である。