飯田線旧線 夏焼隧道      
 


 昭和30年の佐久間ダム完成による線路付け替えが行われた飯田線、中部天竜〜大嵐間。その大部分は湖底に沈んでいる。
 そんな中で、大嵐駅手前に位置する水没を逃れた夏焼隧道は道路に転用され、その長さと雰囲気から廃線界隈では非常に有名な存在である。
 過去に複数回訪れたことのあるこの夏焼隧道だが、どうやら中央部分に未確認の「横穴」があり、道路転用にあたって行われたというかさ上げの痕跡もあるようなので、これらの確認ををテーマに2010年2月再訪した。

 大嵐駅



 飯田線大嵐駅、所在地こそ静岡県浜松市天竜区であるが、その利用者の殆どは天竜川を渡った先にある愛知県の旧富山村の住人という駅である。

 なおこの駅舎は東京駅を模してデザインされたとのことだが、「そう言われれば」といった感じで、一目見ただけでピンとくる人は相当勘が鋭い人であろう。



138個所ものトンネルを擁する飯田線のなかでも最長を誇る大原トンネル(5063m)

 ひとたび飯田線に乗車すれば山向こうの水窪まで10分足らずで運ばれるが、同区間を車で行こうと思えば落石多発の天竜川と西山林道を経由する他なく、慎重な運転を要求される挟路を1時間以上走らなければならないであろう。

 さて佐久間ダム完成による旧線だが、写真の車の辺りから始まっており、駅方面から見れば、こちらが直進方向である。


 大原トンネルのすぐ先には旧線時代のホームが現れる。
 苔むした石積みのホームだが残っているのは僅か10m程で、モニュメント的に残されているのかもしれない






 道端に廃車が連なる県道288号を行くと、すぐに栃ヶ岳隧道が現れる。

 形状からも分かるとおりこれも飯田線の旧線を転用したものである。内部は素掘りの上にコンクリートを吹きつけたような凹凸のある状態になっているが、これは道路転用後の処置であろうか。

  夏焼隧道

  一コマ前の写真に既に写っているが、栃ヶ岳隧道を抜けるとすぐに夏焼隧道に達する。
 昭和12年竣工、延長1238m(当時)を誇る長大な隧道だが、「現在」の正式名称は「夏焼第二隧道」で長さも1233mと微妙に異なるようだ、(ということは栃ヶ岳隧道は夏焼第一か)とはいっても銘版があるわけでもなく、地図にも夏焼隧道としか記されておらず、名前に関してはあくまで戸籍上の問題であろう。
 距離に関しては、後に判明することとなる。

 ちなみに右下の白い看板には夏焼側は水没する可能性があるといったことが書かれているが、そこまで水位があがるとはとても思えない。

 追記
 
 後日再訪時に、昔から夏焼集落に住む女性に話を聞いた所、いまではそこまで水位が上がるようなことはないが、昭和35年頃に隧道が水没したことがあるそうで、この注意書きはその頃取り付けられたのであろう。



 この夏焼隧道とその手前の栃ヶ岳隧道の間には、かつて「栃ヶ沢橋梁」が存在したようだが、現在痕跡は見当たらず沢は埋められてしまったようだ。

 さて隧道内部だが、廃隧道というわけではなくこの先の夏焼集落との間を結ぶ唯一の道としてしっかり管理されている。

 冒頭で述べた通り、掘り直しの状況と、横穴を見落とさないよう、ライトを片手にゆっくり進む。

 路面はしっかり舗装され、天井部分には鉄板による補強も見える。行く手には照明もあり安心して通ることができる。


 
横穴発見。

大嵐側から約300m程入った所の右側にあり、自転車との対比で分かるように横幅こそ結構広いものの高さは低く、中腰でないと入ることは出来ない。



既に16時を過ぎており、この後のことを考えると時間は潤沢ではないが、素通りはできない。

 高さがもっとも低いのは、入ってから5m程の所でそれからはやや高くなり、頭を低くする程度で進むことが出来る。
 
 地面には雑多なゴミが散乱しており、最近のものと思われるペットボトルもあることから、ここへ立ち入る人間はそれなりにいるようだ。

 それよりも左側に見えるレールやその横の木材である。
 車道転用後にここへ持ち込まれたとは思えず、この横穴の出自とも関係がありそうだ。

 横穴へ


 入洞から5分程
 横穴内部にはカビ臭い空気が漂っていて、空気の流れは殆ど感じられない。
 暗いのや狭いのは大丈夫なのだが、地面のぬかるみがだんだん酷くなってきた。

 無理すれば進めない事はないのだが、この先の行動や帰りの電車の事を考えるとこれ以上前進する気にはなれなかった。

 しかしそれ程再訪が難しい場所でも無いので、近日中に準備を整え必ずリベンジを果たすつもりである。


 2010年3月 横穴の謎 解明しました




 謎の横穴を出て、前進を続ける。
 
 最近舗装し直されたと思われる、厚くアスファルトが盛られた路面には、定期的に大嵐側からの距離がペイントされておりとても便利である。

 ご覧のように、既に800mを越えてはいるが、内部の様子に変化は無い

 特に変化を見いだせないまま200m程前進を続けると、妙に寸詰まりな退避抗を発見。(比較用に手前の退避抗をマウスオーバーで表示します)

 これはかさ上げの影響で退避抗が埋まりつつあるのではないであろうか。
 そういえばずっと続いていた下り勾配も収まったように感じる。




 路面にペイントされた数字は「1125」。

 この辺りからかさ上げが始まっているのであろうか。

 そして…



 1140m地点?で見つけたコンクリートの継ぎ目。

 確証はもてないが、手前側が旧飯田線時代のコンクリート、奥側が道路転用後のかさ上げに際しての巻きなおしによるものと思われる。

人為的なものと思われる穴はコンクリートの状態調査用であろうか。




 先に目をやれば、出口はもう目の前だ。

 入口の抗口の形状とは明らかに異なっており、天井の低いきわめて一般的な道路隧道になっている。

 この辺りでは既にオリジナルの夏焼隧道としては失われ、内壁はすべて道路転用後のものだとと思われる。


夏焼隧道(夏焼第二隧道)今までに述べたように、この抗口は飯田線由来のものではなく、道路転用後に造り直された物である。

 手前のコンクリート塊が旧夏焼隧道の抗門の一部とされているが、ここから現抗口までの距離が、夏焼隧道1238mと夏焼第二隧道1233mとの差5mに当たるということか。
が旧夏焼隧道のポータルの一部であるならば、正面から見て右上とそれを支える擁壁の部分と思われ、この下には残りの部分が埋まっているはずだ。

 横には荒く積まれた石垣が見えるが、このかつて三信鉄道が建設した区間には、現地で調達できる材料を使用して築いたこのような石垣も用いられているようなので、これも旧飯田線に関連したものと見てよいだろう。

 正面に天竜川のほとんど動きのない水面を見て、右へ登ってゆけば夏焼集落である。

 いまでこそ夏焼隧道を越えて容易に大嵐駅や、旧富山村の中心部へ到達できるこの場所だが、ダム完成前の旧飯田線時代は相当に下界から隔絶された場所だったに違いない。

掘り直しの状況を簡単に図にするとこんな感じか。

 赤線と黒線の長さの差が新旧夏焼隧道の延長の差にあたる筈である。


 そして左へ進むとこの場所に出る。
 既に過去何度も訪れた事のある場所だが、荒廃した県道288号の廃道がバリケードの向こうに延々と続いている風景のインパクトは薄れない。

 今日は既に夕暮れも近いが、時間の許す限り県道下にある筈の旧飯田線の遺構を見てゆくつもりだ。

追記
 後日ここを再訪した際に夏焼集落に住む年配の女性に話を聞くことができた。

それによれば昭和30年の佐久間ダム完成前の旧飯田線時代には、この先の白神「しらなみ」駅から集落へと続く道があり、そこを通って通学したという。

 今では湖底の泥の中に埋もれた駅からの道程は相当な距離と高低差があり、大変な苦労があったであろう。





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